母は強し!神様の母になった女性たち
- 2022/11/8
- あんはな文庫
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神社やお寺に行くと、いろいろな神様・仏様に出会うことができます。
神仏には、それぞれにストーリーがあります。
また、それらを知ることで、神様・仏様に親しみやすい印象を受けます。
私たちが、神様や仏様を人間の姿でイメージしたくなるのは、元々は人間だったという物語で伝わる神様・仏様がいたり、神様・仏様にも父と母が存在したり、私たちと同じくご先祖様や子孫の方の影が見えてきたりするからかもしれません。
今回は、そんな神仏の家族に注目し、その中でも「母」という存在を追ってみたいと思います。
神様・仏様の母君、どんな人たちがいるのでしょうか。
聖徳太子の母は「穴穂部間人皇女」
数々の神社やお寺を創建したといわれている聖徳太子。
聖徳太子自身も、神様として祀られていることが多いです。
聖徳太子の母君は、「穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)」といいます。
第31代天皇・用明天皇の異母妹であり皇后でもあります。
つまり、兄と結婚し、兄の子を産んだということですね。4人の皇子を産んだとされています。
さらに、用明天皇が崩御した後は、その息子である第一皇子・田目皇子と結婚し、また子供を産んでいるそうです。ここまで聞いただけで、母強し!
聖徳太子の母として有名な穴穂部間人皇女ですが、厩の戸口で厩戸王(聖徳太子のこと)を産んだエピソードは、あまりにも有名。しかし、こちらのエピソードは、イエス・キリストの話を基にした創作ではないかという説があるそうです。
それでも、穴穂部間人皇女が聖徳太子の母として祀られ、現在もさまざまな名所が残っているのは事実です。
例えば、奈良県にある中宮寺は、聖徳太子が母のために建てたという伝えがあるそうで、ここに穴穂部間人皇女のお宮があったという説もあるそうです。
そして、京都の京丹後市には、穴穂部間人皇女と聖徳太子をモデルにした像が立っています。
京丹後市には、当時蘇我氏と物部氏の争いがあり、それを避けるために京丹後に穴穂部間人皇女が身を寄せたと伝わっているそうです。
ちなみに、穴穂部間人皇女の母君は、蘇我小姉君であると伝わっています。
名前からも、蘇我一族を出ていることがわかりますが、蘇我小姉君は蘇我稲目の娘であり、蘇我馬子の妹です。
つまり、穴穂部間人皇女は蘇我稲目の孫、蘇我馬子の姪です。
この時代、天皇と蘇我氏の強い結びつき、さらに聖徳太子と蘇我氏の強い関係がわかる系図でもあります。
釈迦如来の母は「摩耶夫人」
次は、仏様の頂点にいらっしゃる如来様。
その中でも、人間として生まれて悟りをひらき、仏様となった釈迦如来の母について見ていきます。
お釈迦様は、北インドで実在した人物であり、仏教の開祖です。
元々、「釈迦」とは「釈迦族」を表す名で、お釈迦様はここの皇子として不自由なく育ったと伝わっています。
お釈迦様を産んだのは、マーヤー。日本では、「摩耶夫人」と呼ばれています。
一説では、「マーヤー」は名前ではなく、「ママ」を意味する俗語であるとも。
まさに、母のイメージの強い摩耶夫人です。
出産のために里帰りをしていた摩耶夫人は、その途中でお釈迦様を産みます。
その際、お釈迦様は右脇から生まれ出て7歩歩み、右手を上に、左手を下に向けて、『天上天下唯我独尊』と言ったという物語が残っています。
摩耶夫人が祀られている場所は、そこまで多くはありません。
有名なのは、兵庫県にある摩耶山天上寺であり、お釈迦様を産んだ摩耶夫人にあやかろうと、安産祈願や子宝祈願にお参りをする人も多い場所です。また、女人守護の仏様としても信仰されています。
摩耶夫人は、お釈迦様を産んで7日後に亡くなったともいわれています。
そのため、早くに母を亡くした人の心を救う仏様としても信仰されてきた、優しい母性に溢れた仏様なのです。
応神天皇の母は「神功皇后」
最後にご紹介するのは、第15代天皇である応神天皇の母「神功皇后」です。
神功皇后の名は、『日本書記』に気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)の名で登場し、夫である仲哀天皇・子である応神天皇の摂政として約70年間君臨したと記されています。
母としてだけでなく、いろいろな意味で強そう!
実際に、応神天皇が即位するまでは、政事を執り行う聖母(しょうも)と呼ばれていたそうです。
いろいろな伝説がある神功皇后ですが、母としてのエピソードといえば、やっぱり出産の時の話でしょう。
神功皇后は、夫である仲哀天皇の熊襲征伐に付いていきます。
実はこの前に、神功皇后は住吉大神から、熊襲ではなく新羅を討つようにというご神託を受けていたとされています。しかし、これに従わず熊襲を攻めようとした仲哀天皇は、その後に急死してしまったのです。
この時、神功皇后のお腹には応神天皇がいて、既に臨月を迎えていました。
しかし、住吉大神のご神託どおり、玄界灘を渡って朝鮮半島に出兵し、新羅の国を攻めて降伏させたのです。さらに、高句麗・百済も支配し、帰国後に無事出産を終えました。
この時、出産の時期を遅らせるようにと、石でお腹を冷やすことで出産を遅らせた鎮懐石の伝説があります。また、逆に石を撫でることで安産へと導いた月延石の伝説も!
もしかしたら、神功皇后こそ、パワーストーンの使い手だったのかもしれませんね…
とは言っても、
遅らせたと言っても、なんと懐妊から453日後の出産だったと『日本書記』に記されているそう。
これはもう、出産を遅らせたというレベルではないため、父親が違うという説もあるそうです。
それでも、母として、本当にいろいろな意味で強くたくましく生きた神功皇后の生き方は、興味深いものがあります。
母を知ることで、神仏や歴史の偉人の見方も変わる!
今回は、神仏として祀られている神様・仏様の母君にスポットをあてました。
どの物語を見ても、やはり神仏になった人、偉人の母君は、只者ではないエピソードばかりです。
また、どの出産を見ても、全てドラマティックに描かれているのも、面白いところです。
今回は「母」に注目しましたが、神仏の家族や身近な人にスポットをあてるだけで、いろいろな見方が出来て面白いと感じました。
また、「あん・はな」で、ご紹介していきたいと思います!